私の場合、共感というのは素直な感情の発露ではない。感じる前に、その人の感情の機微や言動を踏まえて頭で考えて、「あぁこの人はこういうものを欲しがっているのだな」と分析・言語化して、アウトプットしている。感覚として共感することはできないけれど、頭で考えて、あなたが必要としているものはこれかな?と出してみる感じ。
アウトプットまでの過程は外には見えないので、思いやりのある人に擬態できている。共感はできないけれど、理解はできる、という感じだろうか。もちろん、「わかる!」とか「だよね!」とか、共感できる局面はあるのだけれど、特に職場においては、込み入った状況になればなるほど、頭はギュンギュン回転して、次何を言おうか考えている。つまり、相手の話をあまり聞けていない。
ある時、職場で共感を求められた局面があり(業務上の悩みを聴く中で)、それは正直理解できなかった。というか、理解するための引き出しがその頃の私にはなかった。私に何を言ってほしいのだろうと、聞きながらずっと思っていた。上司からのアドバイスで初めて、「あぁ、共感を求められていたのだな」と「理解」できた。
過去の自分が何を言ったのか、覚えていないことがある。周りの人から「あの時◯◯って言ってたよね」と、話の本筋ではないところについて言われて、私覚えていないぞ?となることがある。皆、人の話を聞いているのだなと、大変驚いた記憶がある。
最近では割り切って、共感は技術だと思うようにしている。心から共感できなくても、理解できればそれでいいじゃないと。